うつ病改善への一歩
俺はうつ病だった。
いきなり重い告白だ。
「うつ病だった」と書いたが、今もちょっとしたきっかけで戻ってしまうことはあるから過去形ではなく現在進行形なのかもしれないが、何とか改善の一歩を踏み出せているようにも思える。
改善の一歩を踏み出すことができたプロセスを以下に長々と書いた。
なかなか大変だったが書きまとめることができて良かった。というのも、ブログを開設して自己発信を始めた理由の1つが「同じようにうつ病に苦しむ人の助けになればいい」と思ったからである。
うつ病の渦に引き込まれて抜け出せないでいる人の助けになれば嬉しい。
今回は、きっかけになった本を紹介したいと思う。
その本とは、
「自信をもてないあなたへ――自分でできる認知行動療法(メラニー・フェネル著)」
である。
認知行動療法は、うつ病の多くの人に推奨されている方法であることは知っていたが、個人的な思い込みから食指が動かなかった。
「なんだよ認知行動療法ってヌルい名称は。
どーせ自分の思考を認知して行動するんだろ?
そんなんで俺のうつ病が治るわけないだろ!!!」
と食わず嫌いしていた。
だが、実際に読んでみると、非常に示唆に富んだ内容で、自分の精神状態を冷静に見つめるために必要な知識や考え方がギッシリ詰まっていた。
本編で取り上げられている9人のケースも参考になる。ほとんどの人にどれかしらのケースが当てはまるのではないかと思う。
彼らが自分の過去を見つめ直していき、最終的に自らの思考と対峙する過程を見ていくのは、成長していく戦友をみているようで、親近感すら湧いて応援してしまう。
この本は、Amazonで2000円程度で買える。kindleなら1500円だ。
1500円で自分の人生を好転させるきっかけになるなら最高の投資だと思う。
この本では、自分の思考パターンを客観的に見る方法を教えてくれる。
詳しくは本を読んで実践してもらった方が早いと思うが、
特に重要だと思う部分をピックアップして、自分のケースはこんな感じということで以下に記しておこうと思う。以降、クソ長いので気になる人は参考にしてください。
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自己批判精神のルーツを知ること
うつ病の人は自己評価が低く、自分自身を否定的な目で見て、自らを責めてしまうことが多いはずだ。「自分はいない方がいい」とか。
自己評価が低いことや、自らを責めることが良くないことだとは分かっている。
しかしその思考を止めることができないのである。無益、むしろ有害であると分かっているのに、自分を責める思考だけが勝手にぐるぐるとまわっていくのだ。
うつ病の人は、まずその自己批判精神を止める必要がある。
この、勝手に自己批判をしてくる人格というか思考の癖(以後、「自己批判精神」とする)がどうやって形成され、どのような過程を経て強化されてきたかという過程を見つけることが推奨されている。経験上、このワークにより、その癖から離れることがより簡単になると思われる。
自己批判精神が生まれる原因・きっかけがあるはずだ。
嫌な記憶だが、過去と向き合うことで、それらしき原因を突き止めることが重要になる。
自分も過去と向き合って、これまでを文章化した。
皆さんも自伝小説を書くつもりでメモ帳かなんかに書きまとめてみてほしい。
回想①———————————————————————————–
俺は幼少期から太っていてのろまで運動音痴だった。
特にボールが苦手で、球技は全くできない。
休み時間は外で遊ばなければ良かったが、体育の時間が苦痛だった。
体育ってなんであんなに球技あるんだろうね。ドッヂボールやらサッカーやらバスケットボールやらバレーボールとか…思い出すだけでもつらい。
俺にボールがくると、ゲームが停止するのだ。毎回ミスするからである。
そして「なんなんだよコイツ」という視線と嘲笑。情けないし、みっともない。
当然、俺と同じチームになりたい人はいない。
サッカーなどでのチーム編成ではしばしばドラフト制がとられる。キャプテンがじゃんけんをして勝った人から一人ずつ指名していく感じだ。ご想像通り、俺が残り、俺の押し付け合いになる。
…「自分はいないほうがいい」という思考を形成
小学校から高校は、運動神経の良さがスクールカーストに大きく影響を与える。
おまけに俺はシャイときたもんだ。みんなの前に発表もロクにできなかった。
カースト制に入るのもおこがましいレベルの底辺だ。地底人である。
幸いにも自分を大切にしてくれる友人はいたが、多くの人間からは馬鹿にされてきた。
…長年の学校生活で自分に自信を持てない精神が成長していく
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これが全てとは言わないが、自分を大切にできない思想の芽生えはこんな感じだ。
これだけではない。「自分を責める精神・完璧主義」という最高で最悪なギフトも高校生時代に追加され、現在まで苦しめられることになる。
完璧主義は自分を責めることに繋がるため、うつ病と親和性がいい。捨てるべき発想だ。
回想②———————————————————————————–
高校に進学した。相変わらず自信を持てない。
なにか秀でた能力があるわけでもない。実は頭が良いとか。
熱心に勉強することもなく、真ん中より下の順位をキープしていた。
そんなとき、マジで意味が分からない、理解できない授業と遭遇する。
さすがにこのままでは単位が取れない、と試験対策を始める。
先生に何度も質問しにいった。徹底的に公式を覚えた。何度も練習問題を繰り返した。
結果、その科目の試験で満点に近い点数をとることができた。
優越感。数少ない成功体験である。
…唯一、自信を持てるものを見つけた(ように見えただけなんだけど。)
成功体験の数が少ない故、皮肉にもこの成功体験に囚われることになる。
そこから勉強の楽しさに気づく。いや、勉強というよりは高得点をとるための試験対策にハマっていったのだと思う。どんどん深みに嵌っていった。
先生に何度も質問しにいった。徹底的に公式を覚えた。何度も練習問題を繰り返した。
病的だったと思う。でも頑張れば高得点をとれるのだ。
その病的さは定期試験の時期が来るにつれて悪化していく。
しまいには、客観的に見ても十分に勉強しているし、赤点をとることはまずないのに、「このままでは赤点になる」と思い込んでパニックになってしまうようになったのだ。勉強していると、理解できていない「漏れ」があることに気づく。「もし、この理解できていない部分が重点的に試験に出てきたら赤点になる」と思い込み、試験範囲内の問題や言葉を漏れなく憶えようと徹底的になってしまった。泣きながら勉強して、理解できていない自分を責めた。
…病的な完璧主義性と自己批判精神の完成
結果、試験ではほぼ満点を連発するのだが、それでも自信を持つことができなくなっていた。ただただ自分を責めることだけが続いていく。
高校卒業後も完璧主義に苦しむことになる→現在へ。
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以上である。
こうやって文章にしてみると、こういう理由だったのか!と改めて自分を理解することができる。
だが、過去と向き合って終わりではない。もうひとつやるべきことがある。
「その自己批判精神が形成された環境は今も存在するか?」
という問いを投げかけるのである。
今の生活を考えると、その精神が芽生えた環境は存在しないことに気付く。
体育をやらされるわけではない。
試験なんてものも存在しないし、赤点とか留年とかという概念も存在しない。
一般社会には存在しない、狭い世界のルールに閉じ込められていたこれまでが異常だったのだ。
それを踏まえると、
「球技ができない自分は存在する価値がない」
「高得点とれない自分はクソ」
という土台の上に成り立っている自己批判精神がとんでもなく時代錯誤なルールであると思わないだろうか。何十年前のルールに縛られてんねん、と。
もうそんなルールは必要ないことに気づくはずだ。
この気づきが重要である。
気づいた瞬間に、自分を責める自己批判精神の力が急に弱まるのを感じないだろうか。
(俺は感じた。サンプル数n=1ですまん。)
そう、その土台を取り壊し、次のルールに変更するときなのだ。
どんなルールが良いかな?
「どんな状況でも自分は最高!!」
そういうルールできたらいいよね。
新しいルールはすぐには自分に馴染まないかもしれない。
実際、俺もまだ慣れていない。でもこれからだ。
うつ病で苦しむ人は、いきなり幸せになることを目指すよりも、自己批判精神の力を弱めることをまずやるべきだと思う。がんばっていこうぜ。
最後に
「ポジティブにいきましょう!」とか
「ものごとを良いほうに解釈しましょう!」とか
「朝起きられたことでも自分をほめましょう!」というコラムをよく読んだりする。
しかし、これまで自己批判精神で生きてきた人間にとっては簡単ではない。
「朝起きた?当然じゃねえか。むしろなんで今までできなかったの?カスなの?」
という自己批判が湧き、良いほうに解釈するとか褒めるとかという選択肢は浮かばないのである。
それは、その自己批判してくる物差しを盲目的に正しいと信じ込んでいってしまっているからだと思う。でも、上記の「思想のルーツを探る」ことによって、信じていた物差しが実は正しくないのでは?という疑問をもつことができる。
この瞬間こそクソ物差しをぶち壊すチャンスである。自分の手綱を取り戻そう。
さあ、無条件で自分を愛せるルールで成り立つ世界に行こう。
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